ロシア連邦 (ロシアれんぽう、 ロシア語 : Российская Федерация、 通称 : ロシア 、Россия)は、 ユーラシア大陸 北部に位置する 連邦共和制国家 。 首都 は モスクワ市 。 領土 は旧 ロシア帝国 および ソビエト連邦 の大半を引き継いでおり、 ヨーロッパ から シベリア ・ 極東 に及ぶ。面積は1709万平方キロメートル以上と 世界最大 である [ 3 ] 。

概要 [編集 ]

ロシアは 国際連合安全保障理事会常任理事国 であり、 独立国家共同体 の指導国であるだけでなく、 G20 、 欧州評議会 、 アジア太平洋経済協力 、 上海協力機構 、 ユーラシア経済共同体 、 欧州安全保障協力機構 、 世界貿易機関 (WTO)などの加盟国である。かつて G8 加盟国であったが、 2014年 3月に クリミア併合 を強行したことでG8の参加資格を停止された [ 4 ] 。 核拡散防止条約 により 核兵器 の保有を認められた5つの 公式核保有国 の1つであり、 世界最大の大量破壊兵器保有国 である。国防費は2010年以降増加の一途を辿っている [ 5 ] 。常備軍の ロシア連邦軍 は 地上軍 ・ 海軍 ・ 航空宇宙軍 の3軍の他、 戦略ロケット軍 と 空挺軍 の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された 軍管区 に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略コマンドが設置されて3軍と 通常兵器 部隊を指揮している( 戦略核兵器 部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人である [ 5 ] 。

政治体制は、ソビエト連邦時代の共産党一党独裁制が放棄されて多党制に基づく選挙が行われるようになったが、 2003年 以降は事実上 ウラジーミル・プーチン 大統領率いる与党 統一ロシア の 一党優位政党制 になっている [ 6 ] 。複数政党制や選挙は一応存在するが、選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治システムが構築されており、政治的意思を表明する機会に乏しい [ 7 ] 。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されており [ 6 ] 、 エコノミスト 誌傘下の研究所 エコノミスト・インテリジェンス・ユニット による 民主主義指数 は、世界134位と後順位で「 独裁政治 体制」に分類されている(2019年度 ) [ 8 ] 。また 国境なき記者団 による 世界報道自由度ランキング も149位と後順位である(2020年度 ) [ 9 ] 。 GDPは 2014年 時点で、 ロシアの経済 は 名目GDP で 世界第9位 ( 発展途上国 に有利になる 購買力平価 では 世界第6位 )であった [ 10 ] 。鉱物及びエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり [ 11 ] 、 世界最大の原油生産国 および 世界最大の天然ガス生産国 の1つである。しかし資源依存の経済体質であるため、近年は原油安で経済が停滞している [ 12 ] 。加えて 2014年 に クリミア併合 を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている [ 13 ] 。 人口は ロシア連邦国家統計庁 によれば1億4680万人(2017年時点。ソ連時代の1990年には2億8862万人だった) [ 5 ] であり、 世界第9位 の人口である [ 14 ] 。最大の民族は ロシア人 だが、 ウクライナ人 や ベラルーシ(白ロシア)人 やトルコ系の ウズベク人 、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。公用語は ロシア語 だが、少数民族の言語も存在する [ 6 ] 。宗教は キリスト教徒 が人口の60%を占め、その大半が ロシア正教会 の信者である。 イスラム教徒 も人口の8%ほどおり、 仏教徒 も存在する [ 6 ] 。 地理 としては ロシアの国境 は、北西から南東へ、 ノルウェー 、 フィンランド 、 エストニア 、 ラトビア 、ともに カリーニングラード州 と隣接する リトアニア および ポーランド 、 ベラルーシ 、 ウクライナ 、 ジョージア 、 アゼルバイジャン 、 カザフスタン 、 中華人民共和国 、 モンゴル国 、 朝鮮民主主義人民共和国 と接する。 海上境界線 としては、 日本 とは オホーツク海 ・ 宗谷海峡 ・ 根室海峡 ・ 珸瑤瑁水道 、 アメリカ合衆国 アラスカ州 とは ベーリング海峡 で接する。ロシアの 面積 は1,707万5,400 km2 で 世界最大 であり、 地球 上の居住地域の8分の1を占める。国土が 北アジア 全体および 東ヨーロッパ の大部分に広がることに伴い、ロシアは 11の標準時 を有し、 広範な環境および地形を包含する 。

ロシアの歴史 は、 3世紀 から 8世紀 までの間に ヨーロッパ で認識され始めた 東スラヴ人 の歴史に始まる [ 15 ] 。 9世紀 、 ヴァリャーグ の戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、 キエフ大公国 の 中世 国家が誕生した。988年、 東ローマ帝国 から キリスト教 正教会 を導入し、 次の千年紀 の ロシア文化 を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった [ 16 ] 。 キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分が モンゴルに侵略 され、遊牧国家 ジョチ・ウルス の属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった( タタールのくびき ) [ 17 ] 。 モスクワ大公国 は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。 クリコヴォの戦い でジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、 イヴァン3世 (イヴァン大帝)の時代に独立。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した [ 18 ] 。 16世紀 中頃に イヴァン4世 (イヴァン雷帝)が モスクワ帝国 を建設。 ピョートル大帝 は、ロシア人が バルト海 に行く道を確保し、 1703年 にバルト海に面する サンクトペテルブルク を建設した。 1712年 にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり、 1721年 に ロシアは帝国 になった。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上 第3位の領土を持つ帝国 となり、版図は ポーランド から北米の アラスカ まで広がった [ 19 ] [ 20 ] 。 1917年 の ロシア革命 の後、 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 が ソビエト連邦 最大かつ指導的な構成国となった。世界初の憲法上の 社会主義共和国 及び広く認められた 超大国 となり [ 21 ] 、 第二次世界大戦 において 連合国 の勝利に決定的な役割を果たした [ 22 ] [ 23 ] 。ソビエト連邦時代には、 世界初の人工衛星 及び 世界初の有人宇宙飛行 を含む20世紀の もっとも重要な複数の技術的偉業 を経験した。 東西冷戦 で対峙する アメリカ合衆国 に双璧となる超大国として国際社会で重要な位置を占めたが、 ソ連共産党 による 一党独裁 の弊害が噴出するようになり、1991年に ソビエト連邦の崩壊 に至った [ 6 ] 。 新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年の 憲法 改正により ) 。 ロシアの国旗 は革命前の白・青・赤の3色旗に戻り、 国際連合 における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる [ 6 ] ( 安全保障理事会常任理事国 など ) 。

国名 [編集 ]

ロシア連邦Российская Федерация 、 ラテン文字転写 : Rossíjskaja Federátsija など、発音:ラッスィーイスカヤ・フィディラーツィヤ、 IPA : [ rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə ] Ru-Rossiyskaya Federatsiya.ogg 発音 [ ヘルプ / ファイル ] )。ロシア語では略号の РФRF )も使われる。英語表記は Russian Federation [ 24 ] 。 ロシア連邦憲法 第1条第2項で ロシア連邦ロシアРоссияRossíja 、ラッスィーヤ、 [ rɐˈsʲijə ] Ru-Россия.ogg 発音 [ ヘルプ / ファイル ] )は同じ意味としており [ 25 ] 、 ロシア語 においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることがある。

歴史的な国名 [編集 ]

ロシアの国名は、 現代 のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたる ルーシ という国家の ギリシア語 名Ῥωςから派生したῬωσσία( 現代ギリシャ語 ではΡωσία)。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こった モスクワ大公国 がルーシ北東地域を統合し、 “ ルーシの遺産の争い ” をめぐって リトアニア大公国 と対立していた 16世紀 の イヴァン4世 (雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まった ロシア・ツァーリ国 を経て、 18世紀 初頭の ピョートル1世 (大帝)が ロシア皇帝 ( インペラートル )と称したことにより対外的にも正式の国名となった。 ルーシの ギリシャ語 風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語 [ 注釈 1 ] はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「 大ロシア ( ロシア語版 、 英語版 )」 [ 注釈 2 ] 、現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「 小ロシア 」 [ 注釈 3 ] と呼んだ。ベラルーシも「 白ロシア 」 [ 注釈 4 ] という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々は ロシア帝国 の崩壊後に別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアは キエフ・ルーシ 時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、 ジョチ・ウルス の時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは 東ローマ帝国 から ローマ帝国 の威信も受け継いだという学説も考案された [ 注釈 5 ] 。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった [ 注釈 6 ] 。

国名の日本語表記の変遷 [編集 ]

前はよりロシア語名に近い ロシヤ と書かれることが少なくなかったが、 1980年代 頃から ギリシャ語 風の(つまりほかのヨーロッパ諸国の名称に合わせた) ロシア という表記が完全に主流となった [ 26 ] 。現代日本語の 漢字表記 は 露西亜 で、略称は [ 注釈 7 ] [ 注釈 8 ] 。 江戸時代 には オロシャをろしや とも呼ばれた。これは、 中国語 の「俄羅斯」および モンゴル語 のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては 魯西亜魯西亞 )という表記が主流で、 1855年 に江戸幕府とロシア帝国の間の最初の条約は「 日本国魯西亜国通好条約 」という名称になった。この漢字表記について 1877年 (明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議を受けた当時の 日本政府 は、ロシア側の希望を受け入れ表記を 露西亜露西亞 )とした [ 27 ] [ 28 ] [ 29 ] 。

歴史 [編集 ]

古代 [編集 ]

今日の ロシア人 は様々な 民族 の 混血 によって成立しているためその起源を一つに絞ることはできないが、 国家 や 文化 、 言語 の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東 ルーシ と呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした 東スラヴ系 の諸部族は フィン系 の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた [ 注釈 9 ] 。やがてその多くは 同化 し [ 注釈 10 ] 、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる文化を築いていった。ロシア人にはフィン・ウゴル系遺伝子( Y染色体ハプログループN系統 )もある程度見られる [ 30 ] 。
古代ギリシャ の作家 プロコピオス は、スラブ人を民主主義に住み、彼らが犠牲にする「稲妻の創造主」( ペルーン )という単一の神を信じる野蛮人と表現した [ 31 ] 。プロコピオスの説明によると、全てのスラブ人は見た目がとても美しく、似たような服を着ており、お互いにほとんど違いはなかった。スラブ人の男性はしばしば長い髪を着た [ 31 ] 。 スラヴ人には独自の文化と 神話 があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の( クトニオスの )神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。 5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に 西部 (ヨーロッパに残っている)と 東部 に分かれた。

中世 [編集 ]

北東ルーシには、 ノルマン人 ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「 ヴァリャーグ 」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。 862年 にはヴァリャーグの長 リューリク が 大ノヴゴロド の 公 となり、町は 東ローマ帝国 との貿易拠点として発展した [ 注釈 11 ] 。後代に書かれた 原初年代記 [ 注釈 12 ] には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。 9世紀 後半にヴァリャーグは ドニエプル 地方に拠点を移した。そのため、それから 13世紀 にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっている キエフ であり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった [ 要出典 ] 。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化した キエフ大公国 は、9世紀に東ローマ帝国から 東西教会分裂 以後に 正教会 となる東方の キリスト教 と ギリシャ 文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭に モンゴル人 による 侵入 で2世紀にわたって ジョチ・ウルス の支配下に入った [ 32 ] 。その混乱の中で、それまでキエフにあった 府主教 座は ウラジーミル・ザレースキイ へ移された。
数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかった モスクワ公 は、モンゴル支配下でルーシ諸公が ハン に納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、 15世紀 にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い 大公国 となった。のち、モスクワ大公は イヴァン3世 のとき ツァーリ (皇帝)の称号を名乗り、その支配領域は ロシア・ツァーリ国 と自称するようになった。 16世紀 に イヴァン4世 (雷帝)が近代化と皇帝集権化、 シベリア 進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその 専制政治 を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱( 動乱時代 )に陥った。モスクワ大公国の主要貴族( ボヤーレ )たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、 士族 民主主義 の確立していた ポーランド・リトアニア共和国 を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた 農民 や 商人 をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、 共和国軍とともにモスクワを占領した 。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商 ストロガノフ家 の援助で ニジニ・ノヴゴロド において義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡って ローマ・カトリック 主義の ポーランド国王兼リトアニア大公 が 信教自由主義 の ポーランド ・ リトアニア共和国議会 と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして 1612年 、 ドミートリー・ポジャールスキー と クジマ・ミーニン の指揮の下、モスクワ市内の クレムリン に駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、 11月1日 して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対する ロシア正教会 の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている( 11月4日 )。ここで中世ロシアは終わり、 ロマノフ朝 の成立とともに近代ロシアが始まることになる。

ロシア帝国 [編集 ]

1866年のロシア帝国およびその勢力範囲 1613年 に ロマノフ朝 が成立すると、大貴族と 農奴制 に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。 17世紀 末から 18世紀 初頭にかけて、 ピョートル1世 (大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都 サンクトペテルブルク の建設( 1703年 )、 大北方戦争 ( 1700年 – 1721年 )での勝利などによって ロシア帝国 の絶対主義体制の基盤を固めた [ 32 ] 。彼の時代から正式に 皇帝 ( インペラートル )の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。 1762年 に即位した エカチェリーナ2世 は オスマン帝国 との 露土戦争 ( 1768年 – 1774年 、 1787年 – 1792年 )に勝利するとともに、 ポーランド分割 に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナと クリミア・ハン国 を併合し、名実ともに「 帝国 」となった。また、 大黒屋光太夫 が彼女に謁見したことにより、 アダム・ラクスマン が 日本 に派遣(詳細は「 北槎聞略 」参照 [ 33 ] )され 日露関係史 が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった [ 32 ] 。 アレクサンドル1世 の治世において 1803年 に勃発した ナポレオン戦争 に参戦し、 1812年 には ナポレオン・ボナパルト 指揮の フランス帝国 軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退( 1812年ロシア戦役 )。戦後は ポーランド立憲王国 や フィンランド大公国 を支配して [ 注釈 13 ] 、 神聖同盟 の一員として ウィーン体制 を維持する欧州の大国となった。国内での デカブリストの乱 やポーランド反乱などの 自由主義 ・ 分離主義 運動は厳しく弾圧された。 1831年 に始まる エジプト・トルコ戦争 以降は、ロシアの 南下政策 を阻む イギリス との対立が激化し、 中央アジア 、 アフガニスタン 、 ガージャール朝 ペルシア (現・ イラン )を巡って、露英両国の駆け引きが続いた( グレート・ゲーム )。 1853年 に勃発した クリミア戦争 ではイギリス・ フランス 連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。 1861年 に皇帝 アレクサンドル2世 は 農奴解放令 を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、 ナロードニキ による農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は過激な アナキズム (無政府主義)やテロリズムを横行させ [ 32 ] 、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。この時期、極東では アロー戦争 の仲介料として 沿海州 を清から獲得し、 ウラジオストク を建設した。 19世紀 末期には、ロシアはそれまでの ドイツ帝国 ・ オーストリア=ハンガリー帝国 との 三帝同盟 から フランス第三共和国 との 露仏同盟 に外交の軸足を移し、 汎スラヴ主義 による バルカン半島 での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により シベリア鉄道 の建設が行われている。 20世紀 初頭になると極東への関心を強め、 満州 や 朝鮮 に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して 1904年 の 日露戦争 となった [ 32 ] 。 1905年 に 血の日曜日事件 など一連の 革命 騒動が発生し、 ポーツマス条約 を結んで敗れると、戦後の 1907年 にロシアは イギリス と 英露協商 、日本と 日露協約 を締結し、 三国協商 に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内では ドゥーマ (国会)の開設や ピョートル・ストルイピン による改革が行われたが、皇帝 ニコライ2世 の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に 社会主義 運動が高揚した。

ソビエト連邦 [編集 ]

1914年 に勃発した 第一次世界大戦 では 連合国 の一員として 中央同盟国 ( ドイツ帝国 、 オーストリア=ハンガリー帝国 、 オスマン帝国 )と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された( 東部戦線 ( 第一次世界大戦 ) )。第一次世界大戦中の 1917年 2月に起こった ロシア革命 で ロマノフ王朝 は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の 干渉軍 も加わって激しい ロシア内戦 となった。 1917年 11月7日 には 十月革命 で ロシア社会民主労働党 ボリシェヴィキ 政権が樹立され、そのトップとなった ウラジーミル・レーニン は ポーランド 、 バルト三国 、 フィンランド の独立承認で帝国の西方領土の一部を手放したあと、ボリシェビキを改称した ロシア共産党 を率いて内戦に勝利し、 1922年 の年の瀬に ソ連共産党 の 一党独裁 による ソビエト社会主義共和国連邦 を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ ソ連を構成する4共和国 (その後15まで増加)のうち、 ロシア人 が多数派を占める大部分の地域は ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 (ロシア連邦共和国)となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都が サンクトペテルブルク から モスクワ へと約200年ぶりに復され、同時に サンクトペテルブルク は レニングラード に改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて 自治共和国 、 自治州 、 民族管区 などが設定され、事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。 ソビエト体制でのロシア連邦共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「 ロシア共産党 」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、 第二次世界大戦 後の 国際連合 でも ウクライナ や 白ロシア (現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 1930年代 の 世界恐慌 で多くの 資本主義 国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだ スターリン による独裁的な主導の下で 農業集団化 ( ロシア語版 )と 重工業 化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は 農民 からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。 農村 弾圧 の結果、ウクライナや ロシア南西部 では 大飢饉 が発生した。その歪みはやがて政治的な粛清と 強制収容所 の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった( 第二次世界大戦 後に再び飢饉( ソビエト連邦における飢饉 ( 1946年-1947年 ) ( ロシア語版 、 英語版 ))が起こる)。 1939年 9月の第二次世界大戦勃発直前に一時 ナチス・ドイツ と モロトフ・リッベントロップ協定 を結んで協調し、 ポーランド第二共和国 を ソ連・ポーランド不可侵条約 を一方的に破棄して侵攻し、 ポーランドを占領 、 冬戦争 でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において 国際連盟 から除名された。1940年には バルト諸国占領 によりソビエト連邦へ併合し、さらにルーマニアから ベッサラビア 地方を割譲させた。1941年6月には 独ソ不可侵条約 を一方的に破棄したナチス・ドイツの ヒトラー に突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され( バルバロッサ作戦 )、危険な状況に陥った。しかし、 1942年 初頭に首都 モスクワ防衛に成功した 後、英米をはじめとする 連合国 の助力もあって スターリングラード攻防戦 および クルスクの戦い を境に、1943年後半には反攻に転じて 独ソ戦 の主導権を握り最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、 チェコスロバキア の一部などを併合し、西に大きく領土を広げた。極東方面では、 1945年 8月、日本に 日ソ中立条約 の不延長を通告して 参戦 。 満州国 や サハリン 南部、 千島列島 、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特に エストニア や ラトヴィア などではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領の カリーニングラード州 でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。 1946年 には旧ドイツ領の 東プロイセン の北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部( 南樺太 )とクリル列島(千島列島、 歯舞群島 ・ 色丹島 を含む)全域を 南サハリン州 として編入した(南サハリン州は 1947年 に サハリン州 に吸収)。一方、 1954年 には黒海沿岸の クリミア半島 ( クリミア州 )がウクライナに移管され、ロシア連邦共和国の領土は 2014年のクリミア半島編入 以前のロシア連邦にあたる領域になった。 日本は サンフランシスコ講和条約 で一部領土を放棄したものの、 千島列島 南部の 北方領土 の返還を要求。それ以外の千島列島及び 南樺太 はロシア 領土 ではなく 帰属 未定地であると主張している [ 注釈 14 ] 。ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。 なお、日本はユジノサハリンスクに 在ユジノサハリンスク日本国総領事館 を設置している。日本外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市(旧 豊原市 )をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている [ 34 ] 。 戦後、ソ連は強大な ソ連軍 の軍事力を背景に 1949年 の 北大西洋条約機構 (NATO)結成に対抗して 1955年 に ワルシャワ条約機構 (WTO)を結成し、 東ドイツ 、ポーランド、チェコスロバキア、 ハンガリー 、ルーマニア、 ブルガリア などの 東欧 諸国を 衛星国 として 東側諸国 の盟主となり、自国と同様の 人民民主主義 体制を強要して世界の2大 超大国 の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする 西側諸国 と 冷戦 を繰り広げた。しかし、すでに 1948年 には バルカン半島 にて チトー主義 下の ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 がソ連から離反しており、 1956年 に共産党第一書記 ニキータ・フルシチョフ による スターリン批判 が行われた後は 自由主義 陣営との 平和共存 路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であった ハンガリー人民共和国 で ハンガリー動乱 が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する 毛沢東 が率いていた 中華人民共和国 や 毛沢東思想 に共鳴する アルバニア人民共和国 の離反を招くなど、 新スターリン主義 によるソ連の指導性は揺らいだ( 中ソ対立 )。 1965年 に共産党書記長 レオニード・ブレジネフ が主導権を握ったあと、 ベトナム戦争 にて アメリカ合衆国 と戦う ホー・チ・ミン 率いる 北ベトナム を支援したが、ブレジネフ在任中の 1968年 には衛星国であった チェコスロバキア社会主義共和国 で「 プラハの春 」が始まり、翌 1969年 にはかねてから対立していた中華人民共和国と 珍宝島 ・ ダマンスキー島 を巡って 中ソ国境紛争 を戦うなど、共産圏におけるソ連の指導性はさらに揺らぎ、 1970年代 に入ると 計画経済 の破綻などから次第に ソ連型社会主義 の矛盾が露呈していった。 1979年 から 1989年 にかけて アフガニスタンを侵略した 。この際ソ連軍が アフガニスタン の大統領官邸を急襲し、最高指導者 ハフィーズッラー・アミーン と警護隊を殺害するという テロ 行為( 嵐333号作戦 )を行っている。 1985年 にソ連の指導者となった ミハイル・ゴルバチョフ は冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるため ペレストロイカ と グラスノスチ を掲げて改革に取り組んだものの、却って各地で 民族主義 が噴出し、共産党内の対立が激化した。 党内抗争に敗れた改革派の ボリス・エリツィン はソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、 1990年 に 最高会議 ( ロシア語版 )議長となると、同年 6月12日 に ロシア共和国 と改称して 主権 宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。 1991年 8月のクーデター ではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年 12月25日 にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、翌日 12月26日 ソビエト連邦は崩壊した 。

ロシア連邦 [編集 ]

成立と脱共産化 [編集 ]

1991年 12月26日 のソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱して ロシア連邦 として成立し、エリツィンが初代 ロシア連邦大統領 に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により 世界規模のアメリカの覇権 が成立し、当時はこれを 歴史の終わり と見る向きも現れた。 ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である 独立国家共同体 (CIS/СНГ)加盟国の一つとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利( 安全保障理事会常任理事国 など)・ 国際法 上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持している。 国名は 1992年 5月、ロシア連邦条約によって現在の ロシア連邦 と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、 ソ連 大統領ゴルバチョフ辞任の当日である 1991年 12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。 エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「 オリガルヒ 」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。 ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたが、それらを建設するだけで巨額の財政負担となっており、財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず、無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた [ 35 ] 。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み、人口減少社会となるなか、若者向けに低家賃で貸し出されている [ 35 ] 。 1993年 には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争( 10月政変 )が起こったものの、同年12月12日には国民投票によって ロシア連邦憲法 が制定された。1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指す チェチェン 独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で 第一次チェチェン紛争 が発生し、一般市民を巻き込んで10万人以上が犠牲になった。1997年5月に和平に向けて ハサヴユルト協定 が調印され、5年間の停戦が合意された。ところが1999年8月、チェチェン独立派勢力(チェチェン・イチケリア共和国等)と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で 第二次チェチェン紛争 が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとにロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月に ロシアの首相 に就任した ウラジミール・プーチン らがこの強硬策を推進した [ 6 ] 。 1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルの ユーロ債 を起債した [ 36 ] 。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した [ 36 ] 。 1999年 12月8日、当時の大統領エリツィンと ベラルーシ の大統領 アレクサンドル・ルカシェンコ との間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指す ロシア・ベラルーシ連盟国創設条約 が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は事実上停滞状態となっている。

プーチン政権 [編集 ]

1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した [ 6 ] 。「法の独裁」による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された [ 6 ] 。 2003年 、 ミハイル・ホドルコフスキー が脱税などの罪で逮捕・起訴され、 ユコス の社長を辞任した。 シブネフチ との合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、 内部者取引 が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し [ 35 ] 、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとして ハーグ の 常設仲裁裁判所 へ提訴した。2010年6月26日、政府側の ロスネフチ に賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された [ 37 ] 。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に 欧州人権裁判所 が政府の上訴を棄却した [ 38 ] 。2016年4月、ハーグ地区裁判所が、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した [ 39 ] 。 政権初期に チェチェン共和国 への軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持する サウジアラビア など アメリカに友好的 な 湾岸 の スンニ派 諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、 上海協力機構 を通じて 中華人民共和国 や イラン との関係を強化し、また 中央アジア 各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。 ウクライナ で親西欧政権ができると、 天然ガス 供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的に ドイツ や フランス への自国の影響力を誇示した。 また、プーチンの大統領就任当初は アメリカ同時多発テロ事件 以降の対テロ戦争という目的から蜜月と言われたアメリカとの関係も、 イラク戦争 や イラン核開発疑惑 といった諸問題を扱う中で悪化、また米国が主導する旧ソ連各地の カラー革命 などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、上院議員のマケインに代表されるアメリカの反ロシア ネオコン 勢力が中心となって行った東ヨーロッパの ミサイル防衛 構想、ソ連崩壊時に 北大西洋条約機構 (NATO)は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての 冷戦 とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。 2007年 には 2014年 の 冬季オリンピック を南部の ソチ で開催する ソチオリンピック の招致に成功した。 2008年 5月、側近の ドミートリー・メドヴェージェフ が大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で 南オセチア 問題を原因とする 南オセチア紛争 が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる [ 誰によって? ] 。事実、「アメリカの裏庭」である ベネズエラ 、 エクアドル などの反米的な 中南米 諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」である ウクライナ 、 ジョージア(グルジア) などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「 新冷戦 」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている [ 40 ] 。

クリミア半島編入とシリア内戦をめぐる欧米との対立 [編集 ]

2014年ウクライナ騒乱 により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領 ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ が解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、 オレクサンドル・トゥルチノフ 大統領代行の暫定政権を承認しなかった。 2月後半から、以前から クリミア半島 に駐留していたロシア軍部隊によって、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多い クリミア自治共和国 ・ セヴァストポリ 特別市を掌握した( ロシアのクリミア侵攻 )。 クリミア自治共和国とセヴァストポリは、 3月16日 にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う 住民投票 を実施し、その結果を受けて翌 3月17日 に両者は クリミア共和国 として独立し、ロシアへの編入を求める決議を採択した。 翌 3月18日 、プーチンはクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。 アメリカ合衆国 、 欧州連合 、そして 日本 などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている( 2014年クリミア危機 )。この経緯によってロシアはG8の参加資格を停止され [ 4 ] 、欧米諸国がロシアに 経済制裁 を科した。 2011年 から始まった シリア内戦 では 反体制派 を支援する欧米に対し、 中東 での影響力を維持したいロシアがイランと共に バッシャール・アル=アサド 政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日には ロシア連邦軍 がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始( ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆 )。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権と クルド人勢力 の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していた トルコ がクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらに エジプト や イラク 、 イスラエル といった 親米 国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。 プーチンによる外交は、アメリカの大統領 バラク・オバマ を差し置いて世界的な影響力を持ち [ 要出典 ] 、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も手厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。 現在、一部の欧米諸国はロシアへの経済制裁の解除及び緩和をし始めているが、アメリカを中心とする西側の欧米主要国はいまだにそういった様相を見せておらず、原油価格の上昇も当分は見込めないことから、ロシアは経済的に長い停滞期間が続いている。 西側諸国から孤立しつつある一方、 上海協力機構 を中心に非欧米諸国との結びつきを強めることで国際社会での存在感を見せつけている。 2016年12月、アメリカで親ロシア派と公言していた ドナルド・トランプ 政権への政権交代があったものの、アメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため、弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し [ 41 ] 、米露間の関係が修復する兆しは一向にない。アメリカ大統領選挙のサイバー攻撃や、ミンスク和平合意の不履行による報復措置がとられたり [ 42 ] 、ロシアが条約に違反したとして 中距離核戦力全廃条約 から撤退するなど [ 43 ] 、両国間の溝は深まるばかりである。 2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言している ジョー・バイデン 政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている [ 42 ] 。

政治 [編集 ]

国政では 連邦制 、 共和制 ・ 半大統領制 をとっている。 国家元首 である ロシア連邦大統領 がおり、 三権 である
は分立している。

大統領 [編集 ]

ロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。 ソビエト連邦 (USSR)からの独立・ 独立国家共同体 (CIS)への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、 2008年 の憲法改正によって6年となった [ 44 ] [ 注釈 15 ] 。

行政 [編集 ]

国家元首である大統領は 行政 には含まれないが、行政に対して強大な指導力を発揮する。大統領は 議会 ( ロシア連邦議会 : 上院 に相当する 連邦院 および 下院 に相当する 国家院 )の信任を要する 首相 ( ロシアの首相 )を含む政府( ロシア連邦政府 )の要職の指名権・任命権と、議会の同意なしに 政令 ( 大統領令 )を発布する権限を保持し、 軍隊 ( ロシア連邦軍 )と 国家安全保障会議 ( ロシア連邦安全保障会議 )の長を兼ねる。 第2次 ウラジーミル・プーチン 政権が発足してから「プーチンなきロシア」を叫ぶ市民のデモが開催されるなど反プーチンの運動が活発化している。そのためこれらの運動の封じ込めの一環として、「宗教信者の感情を害した者に禁錮刑と罰金を科す法案」「 未成年者への同性愛の宣伝行為に罰金を科すことを定めた法案 」に2013年に [ 45 ] 、「好ましからざる外国組織のロシアでの活動を禁じる法律」が2015年にそれぞれ成立し、政府の統制が強化されている。 一方、ロシアは反体制派への統制を強化してはいるものの、そもそも 旧西側 の欧米諸国が支援するロシアの反プーチンリベラル勢力は大多数のロシア国民の間では至って不人気となっており、与党の統一ロシアは高い支持率を保っている。これは、初代大統領の ボリス・エリツィン 政権時代の親欧米派オリガルヒ( ロシアの新興財閥 )によるロシアの富の私物化や市場経済化による国民生活の混乱に起因し、急激な貧富の格差拡大の受け入れを強いられているロシア国民の大半は安定を求めているからである。

立法 [編集 ]

ロシア連邦議会 (Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal’noe Sobranie Rossijskoj Federatsii)は二院制で、各 連邦構成主体 の行政府と立法府の代表1人ずつからなり、 上院 に相当する 連邦院連邦会議 、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、 下院 に相当する 国家院国家会議 、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は任期4年で、 小選挙区制 と 比例代表制 により半数ずつ選出される仕組みであったが、 2005年 4月23日 完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、 ウラジーミル・プーチン 政権、 シロヴィキ および与党 統一ロシア に有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。

司法 [編集 ]

ロシアの 司法 には、最高位に ロシア憲法裁判所 ( 英語版 )、 ロシア最高裁判所 ( 英語版 )、 ロシア最高仲裁裁判所 ( 英語版 )がある。その下に ロシア地方裁判所 ( 英語版 )、地域裁判所がある。裁判は 大陸法 型である。行政府からの訴追は 司法省 が担当する。1996年に 陪審制 を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までにすべての地域で導入された。 以前 [ いつ? ] から 死刑 の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している 欧州人権条約 を 批准 するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令で、ロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。ロシアは 欧州評議会 の加盟国47か国中、同議定書の最後の批准国となった。

政党 [編集 ]

複数政党制 を採用しており、主要政党以外には リベラル派 や 中道派 をはじめ、 社会主義 や 共産主義 、 民族主義 、 愛国主義 を活動理念に掲げる政党が存在する。

国際関係 [編集 ]

ロシア連邦政府は 1990年代 まで続いた ソビエト連邦 の正式な後継政権で、 国際連合 では 安全保障理事会 の 常任理事国 5か国の一つでもあり、その他国際組織でソ連の持ち分を引き継いでいる。国際関係は多面的であり、世界の191か国と関係を持ち、 大使館 を144か所置いている。国際関係の方針は大統領が決め、具体的には 外務省 が執行する。 かつての「 超大国 」を引き継いではいるが、現在の 多極体制 へ移行した世界の中でその立場は専門家の間で様々に議論されており、 列強 ではあるが「潜在的な超大国」扱いである [ 46 ] 。
ロシアは「 中東カルテット 」のひとつで、北朝鮮問題では「 六者会合 」に参加している。 欧州評議会 (CoE)、 欧州安全保障協力機構 (OSCE)、 アジア太平洋経済協力 (APEC)の一員である。1997年には「 人権と基本的自由の保護のための条約 」を批准している。ロシア連邦の発足当初は 米国 とも 北大西洋条約機構 (NATO)とも友好的であったが、現在は様々な分野で対立が顕著である。 21世紀 になってからは、豊富な 原油 や 天然ガス などエネルギー資源を梃子に、特に欧州と 中央アジア に対し、急速に影響力を拡大している。 ソビエト連邦の崩壊 後の弱体性から比較すると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシア政府との協議なしにソ連時代の 旧東側 の 東ヨーロッパ への ミサイル防衛 基地の展開を進めている米国やNATOとの緊張状態は高まりつつある( 新冷戦 )。 ロシアが欧米から批判されている問題の一部に、同国における 人権 問題、自由でない メディア 、 LGBT 禁止問題、 ノビチョク などがある。

日本 [編集 ]

両国の間では 経済的 な交流がいくつかあるが、過去の シベリア抑留 ・ 北方領土問題 ・それに起因する 漁民 銃撃と 拿捕 事件・ 資源問題 ( サハリン2 を参照)なども生じており、その関係はあまり良くない。その上で ロシア人 の 日本 に対する 信頼 は、 アメリカ ・ イギリス に対する信頼よりも高いという 調査 結果がある。

2016年 ロシア調査 最も信頼できる国は?

全ロシア世論調査センター[47]
国家 信頼できると回答した割合
中華人民共和国の旗 中国 25%
日本の旗 日本 9.9%
インドの旗 インド 9.6%
ドイツの旗 ドイツ 4.6%
イタリアの旗 イタリア 4.5%
フランスの旗 フランス 4.1%
その他 15.3%
どの国も信頼しない 27.0%

ブラジル [編集 ]

ロシアは ブラジル と重要な同盟関係を構築しており、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。 ブラジルは BRICS のメンバーでもある。

インド [編集 ]

インド とは大幅な防衛・戦略上の関係( India–Russia military relations )を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客である。

中国 [編集 ]

中華人民共和国 とは2001年に 中露善隣友好協力条約 を結び、 東シベリア・太平洋石油パイプライン の支線も 大慶油田 へ引いている。傍らで 上海協力機構 や BRICs での関係も深めており、良好な間柄となっている。

南アフリカ [編集 ]

南アフリカ はソ連と公式の外交関係を結んでいたことから後継国のロシアと深い関係性を持っており、1992年2月28日付で完全な外交関係を樹立している。南アフリカはBRICSの1国として加盟。

キューバ [編集 ]

キューバ とはソ連時代から緊密な協力関係を築いており、ソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナからクリミア半島を併合した際、キューバは同半島をロシアの一部として承認している [ 48 ] 。

マレーシア [編集 ]

サウジアラビア [編集 ]

ロシアと サウジアラビア の両国は「石油超大国」と呼ばれており、世界の原油生産の約4分の1を占めている。

軍事 [編集 ]

ロシア連邦軍 には ロシア陸軍 、 海軍 、 空軍 があり、これとは別に 戦略ミサイル部隊 ( Strategic Missile Troops ) 、 航空宇宙防衛軍 、 空挺軍 もある。2017年には約100万人が軍に属しており、これは 世界で第5位 である [ 49 ] 。これに加えてソビエト時代の招集を考えると、約250万人の 予備役 (在郷軍人)がおり、その総数は約2,500万に上るともいわれている [ 50 ] 。18才から27才の国民男子は全て1年間の 兵役義務 がある。 ロシアは世界で最大の核兵器( Russia and weapons of mass destruction )を所有し [ 51 ] 、世界で2番目の 弾道ミサイル潜水艦 ( Ballistic projectile submarine )部隊を持ち、米国以外で唯一の 戦略爆撃機 隊がある。ロシアの 戦車 部隊は世界最大 [ 要出典 ] で、海軍の海上部隊、空軍は世界でも最大級である。 ロシアでは 軍需産業 が盛んである。軍事関係の世界的な供給者としては、2001年には世界の30パーセントを占め、80か国へ輸出しており、世界でも上位にあった [ 52 ] 。 ストックホルム国際平和研究所 の調査では、2010 – 2014年には世界第2位の輸出国で、2005 – 2009年に比して37パーセントの増加を示した [ 53 ] 。ロシアは56か国および 東部ウクライナの反乱部隊 へ武器を供給した。

準軍事組織 [編集 ]

ロシアには正規軍以外で、以下の 準軍事組織 が存在する。
現在、 連邦保安庁 と 対外情報庁 が サイバー攻撃 への 防衛 などを始めとして、国内の 防諜 ・ 情報機関 や治安組織としての役割を担っている。 他には 連邦警護庁 、 参謀本部情報総局 、 参謀本部軍事測量局 が存在しており、連邦の安全保障になくてはならない重要部署として機能している。

地理 [編集 ]

ロシアの地形図 世界最大の面積を持つロシアは、 ユーラシア大陸 の北部に バルト海 沿岸から 太平洋 まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は 日本 の約45倍、 アメリカ の約1.7倍にも達し、 南米大陸 全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km²(日本の 本州 の約3倍程度)大きい ) 。 国土の北辺は 北極圏 に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。 ヨーロッパ 部( ヨーロッパ・ロシア )と アジア 部( シベリア )の大部分は広大な平原で、南部の ステップ から北は広大な針葉林の森である タイガ がその大部分を占めている。さらに高緯度になると、樹木が生育しない ツンドラ 地帯となる。 黒海 と カスピ海 の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)の エリブルース山 を含む カフカース山脈 があり、ヨーロッパとアジアの境界には ウラル山脈 がある。 面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらに スラブ 文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。 国土を囲む海域には 北極海 の一部である バレンツ海 、 白海 、 カラ海 、 ラプテフ海 、 東シベリア海 と、 太平洋 の一部である ベーリング海 、 オホーツク海 、 日本海 、そして西の バルト海 と西南の 黒海 があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、 ゼムリャフランツァヨシファ 、 ノヴァヤゼムリャ (米国を越える史上最大規模の 核実験 が行われた ) 、 セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島 、 ノヴォシビルスク諸島 、 ウランゲル島 、 サハリン (樺太 ) 、そして 日本 との領土問題を抱える クリル諸島 (千島列島)がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は 北極 寒波の影響が強いため厳寒であり、 氷点下 を下回る日が長く続く。 ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部の ドン川 、大型で良質の チョウザメ が多数生息する ヴォルガ川 、 カマ川 、 オカ川 、アジア部の オビ川 、 エニセイ川 、 レナ川 、 サケ類 の漁獲で有名な アムール川 などの大河が挙げられる。これらの下流域は日本で大河とされる 最上川 、 北上川 や 四万十川 よりも川幅が広く、いずれも セントローレンス川 下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。 ブリヤート共和国 の バイカル湖 は世界一古く水深の深い 湖 として有名な 構造湖 である。このほか、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な 人造湖 が存在する。

気候 [編集 ]

ロシアには基本的に 大陸性気候 が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。 ケッペンの気候区分 に従うと、 亜寒帯 (冷帯)(D)に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって 大陸性気候 の特徴がはっきりしてくる。冬はシベリア付近で 放射冷却 のために気温が著しく下がり、優勢な シベリア高気圧 が形成される。北半球で最も寒い地域で、 寒極 と呼ばれる(たとえば-71.2°C( オイミャコン )、-66.7°C( ベルホヤンスク ))。しかしながら夏季には最高気温が30°Cを超える。 典型的な植生は 北極海 沿岸が ツンドラ 、南に下るにしたがって 針葉樹林 の タイガ 、 混交林 、 プレーリー 、ステップに移行していく。 右図はロシアを中心とした 地域 にケッペンの 気候 区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。

亜寒帯 [編集 ]

Dfa
亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が22°C以上の地域。地図では明るい空色で描かれている。黒海とカスピ海に挟まれた狭い地域に広がる。
Dfb
亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が10°C以上22°C未満であり、月平均気温10°C以上の月が4か月以上ある地域。地図では空色(シアン)で描かれている。ポーランドやハンガリーなどの中東欧諸国と共通の気候区分でもある。首都モスクワを含み、ロシア西部からモンゴル国境西端まで広く分布する。沿海州北部やサハリン北部にも見られる。モスクワの年平均気温は5.3°C、1月の平均気温は-7.5°C、7月は18.4°C、年平均降水量は705.3ミリである。
Dfc
亜寒帯湿潤気候のうち、以下の3条件を満たす地域、すなわち最暖月が10°C以上22°C未満、月平均気温10°C以上の月が3か月以下、最寒月が-38°C以上-3°C未満。地図ではDfbの北に広がる暗緑色で描かれている。北欧諸国と共通の気候区分であり、ロシア領土に占める面積では最も広い。中央シベリア高原からカムチャツカ半島にかけて一部Dfdに移行している部分以外は、全国にまたがっている。植生はタイガ中心。
Dfd
亜寒帯湿潤気候のうち、3つの条件、すなわち最暖月が10°C以上22°C未満、月平均気温10°C以上の月が3か月以下、最寒月が-38°C未満を満たす地域。中央シベリア高原から東に延びるさらに暗い緑色で描かれている(内部にDwcの領域を含む)。
Dwb
亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が10°C以上22°C未満、加えて月平均気温10度以上の月が4か月以上ある地域。地図では青紫色で描かれている。モンゴル国境から北にかけて広がる。
Dwa
亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が22°C以上ある地域。地図では薄紫色で描かれている。Dwbと隣接し沿海州に向かって広がる。
Dsb
高地地中海性気候のうち、最暖月が10°C以上22°C未満、加えて月平均気温10°C以上の月が4か月以上ある地域。地図では赤紫色で描かれている。カムチャッカ半島西岸などに見られる。
Dsd
高地地中海性気候のうち、3つの条件を満たす地域。すなわち、最暖月が10°C以上22°C未満、月平均気温10°C以上の月が3か月以下、最寒月が-38°C未満。地図では薄赤紫色で描かれている。Dsbに隣接したごく狭い範囲に見られる。地球上でこの地点にのみ見られる気候区である。

その他の気候区 [編集 ]

ET
ツンドラ気候。地図では薄い灰色で描かれている。北極海沿岸全域に広がる。
BSk
ステップ気候のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図では黄土色で描かれている。モンゴル西端から北に伸びたごく狭い範囲に加え、カスピ海沿岸に見られる。
BWk
砂漠気候のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図ではサーモン色で描かれている。BSkに隣接したごくわずかな範囲に見られる。
Cfa
温暖湿潤気候。黒海沿岸の狭い地域に見られる。

地方行政区分 [編集 ]

連邦構成主体 [編集 ]

ロシア連邦は、85の 連邦構成主体 と呼ばれる地方行政体からなる 連邦国家 である。連邦構成主体としては、46の「州」(область ; oblast ‘ ) 、9の「地方」 ( край ; kraj ) 、3の「市」 ( 連邦市 город федерального значения ; gorod federal’nogo znacheniya ) 、22の「共和国」 ( республика ; respublika ) 、1の「自治州」 ( автономная область ; avtonomnaja oblast ‘ ) 、4の「自治管区」 ( автономный округ ; avtonomnyj okrug)がある。ただし、このうちの クリミア共和国 と セヴァストポリ連邦市 はウクライナと帰属係争中である。

連邦管区 [編集 ]

プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、85の連邦構成主体とは別に、 2000年 5月13日 に全土を7つに分けた 連邦管区 を設置した。2014年時点ではウクライナと係争中の クリミア連邦管区 を含め、9つになっている。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。
さらに、 2004年 12月に 地方自治体 の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。

主要都市 [編集 ]

ロシアには人口100万人を超える都市が15( 2021年 時点)ある。最大の都市は首都 モスクワ (1,260万人( 2021年 ) )である。続く サンクトペテルブルク (545万人(2021年 ) )との2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体( 連邦市 )として ほかの州 や 連邦内の共和国 と同格となる。ウラル山脈東山麓の エカテリンブルク 、 チェリャビンスク 、シベリアの オムスク 、 ノヴォシビルスク を除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわち ヨーロッパ・ロシア に位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、 ハバロフスク や ウラジオストク は50万人を超える人口を持つ。

都市 行政区分 人口(人) 都市 行政区分 人口(人)
1 モスクワ モスクワ 12,582,631 11 ウファ バシコルトスタン共和国 1,135,658
2 サンクトペテルブルク サンクトペテルブルク 5,452,852 12 クラスノヤルスク クラスノヤルスク地方 1,106,550
3 ノヴォシビルスク ノヴォシビルスク州 1,641,654 13 ヴォロネジ ヴォロネジ州 1,076,784
4 エカテリンブルク スヴェルドロフスク州 1,508,966 14 ペルミ ペルミ地方 1,062,045
5 カザン タタールスタン共和国 1,269,382 15 ヴォルゴグラード ヴォルゴグラード州 1,007,784
6 ニジニ・ノヴゴロド ニジニ・ノヴゴロド州 1,252,398 16 クラスノダール クラスノダール地方 953,816
7 チェリャビンスク チェリャビンスク州 1,203,547 17 サラトフ サラトフ州 838,056
8 サマーラ サマラ州 1,155,859 18 チュメニ チュメニ州 834,134
9 オムスク オムスク州 1,154,546 19 トリヤッチ サマラ州 697,440
10 ロストフ・ナ・ドヌ ロストフ 1,142,886 20 イジェフスク ウドムルト共和国 650,223
2021年国勢調査

経済 [編集 ]

ロシアは ブラジル ・ 中国 ・ インド とともに「 BRICs 」と呼ばれる新興経済国群の一つに挙げられているが、この中でロシアは1人あたりのGDPが最も先進国に近い。 IMF によると、2021年のロシアの GDP は1兆5800億ドルであり、世界第11位である [ 54 ] 。一方、1人あたりのGDPは1万1,163ドル [ 55 ] で首都モスクワと地方の格差もあり、ロシア全体では先進国より低い水準である。 中村逸郎 は、GDPの約70パーセントを国民の1パーセントである富裕層が持っている [ 56 ] としている。 ソ連解体後、 ボリス・エリツィン 大統領の主導のもと 市場経済化 が進められたが、このために却って急速な インフレーション を招き、 1990年代 半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが 1997年 の アジア通貨危機 の影響を受けて 1998年 に 財政危機 を招き、再び落ち込んだ。 2014年のクリミア併合による欧米から経済制裁と石油価格の下落により経済は低迷している [ 57 ] 。

資源依存の経済 [編集 ]

2019年現在、ロシアは アメリカ と サウジアラビア に次ぐ世界第3位の 原油 生産国 [ 58 ] であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の 原油 輸出国である [ 59 ] 。2003年以来の 原油価格 上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油の価格が高いときに成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者( オリガルヒ 、 新富裕層 、体制転換の混乱で成り上がった 新ロシア人 ( ロシア語版 )に代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン独立派武装勢力による テロ のリスクなど、不安定要因もいくつかは見られる。石油価格が高かった 2000年 にはGDP成長率が10パーセントを越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いた。一人当たり名目GDPも、1999年には1,334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6,879ドルと5倍強の増加を見せた。しかし、輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る経済構造となっている、いわゆるモノカルチャー経済である。 モーリー・ロバートソン は「石油の値段が世界的に右肩上がりのときはお金がどんどん入ってくるが、原油が安くなるとあっという間に貧乏に転落するという図式」と説明している [ 56 ] 。

農業 [編集 ]

農産物の自給自足にも力を入れており、ロシアは世界における「最大の 小麦 輸出国」ならびに「 米 の栽培の北限地」として知られている。 米国農務省 は、2016年度・2017年度( 2016年 7月 – 2017年 6月 )のロシアによる小麦輸出量の推定量を50万トン引き上げ、記録的な2,500万トンとしている。なお、2015年度・2016年度に米国(2,120万トン)と カナダ (2,250万トン)を抜いて世界の主要輸出国となっている [ 60 ] 。 2014年 、同国での米生産量は113万8,000トン(うち90パーセントが クラスノダール地方 での栽培)で生産量は記録的に高いものとなっている。加えて、米の栽培効率は1ヘクタールあたり7,100キロで、ヨーロッパにおいて米を生産する国で知られる スペイン 、 イタリア に比較しても多いものとなっているうえ、アジア諸国より多い。同国の米は ウズベキスタン 、 タジキスタン 、 トルクメニスタン 、トルコにも輸出されている [ 61 ] [ 62 ] 。 米国農務省による2021-22年度推計では、ロシアの小麦は生産量が過去最多の8600万トン、輸出量は4000万トンで世界一を維持する見通しである。ソ連時代は大量の穀物を輸入していたが、平坦な国土に農地が広がっており、ロシア経済の安定化に伴い農機や 肥料 の投入増、 畜産 の効率向上による 飼料 に使う小麦の節約で、 生産性 や輸出余力が高まった。欧米の経済生産による通貨 ルーブル の下落も輸出競争力を高めているが、 パン 価格の上昇に国民が不満を抱くと輸出 関税 などで国外への出荷を抑えようとする政策も採られている [ 63 ] 。

漁業 [編集 ]

鉱業 [編集 ]

ロシアはもっとも 鉱物資源 が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は 経済産業調査会 『鉱業便覧 平成14年版』による2002年時点のもの)。 有機鉱物資源では、 天然ガス (2,1807千兆ジュール、21.9パーセント、2位)、 原油 (3.5億トン、10.3パーセント、2位)、燃料に用いられる 亜炭 (8,668万トン、9.5パーセント、4位)、 石炭 (1.6億トン、4.4パーセント、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビアと米国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。 これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭(88パーセント)と天然ガス(69パーセント)である。一方、原油の国内消費比率は29パーセントと低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6,211万トン、 2001年 )である。

観光 [編集 ]

ロシアは世界有数の観光地として知られている。観光スポットが各地にあり、海外から多くの観光客が訪れている。その中で最も代表的なものとして知られているのは、 世界遺産 に登録されている サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群 や 赤の広場 である。

貿易 [編集 ]

色と面積で示したロシアの輸出品目 ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、 国民総生産 3,978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年には、国民総生産4,885億ドルに対し輸出は1,260億ドル、輸入524億ドルに増加しており、輸出の伸びが著しい。これは原油および、 石油 関連の生産・輸出拡大によるものである。ロシアの貿易構造は1992年から2003年までの約10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では 機械 と原油、 化学工業 製品を輸出し、 建設機械 と 軽工業 品、 食料 を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油,石油製品を輸出し、機械、 自動車 を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。 1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械(35.0 % )、天然ガスを含む原油(14.7 % )、 化学品 (10.6 % )、軽工業品(8.1 % )、 鉄鋼 (6.9 % )。同輸入品は、建築機械(36.2 % )、軽工業品(20.4 % )、食料(16.7 % )、化学品(7.5 % )、鉄鋼(5.0 % )。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 ( 27.6 % ) 、 石油ガス ( 13.0 % ) 、石油製品 ( 10.4 % ) 、鉄鋼 ( 6.1 % ) 、 アルミニウム (2.6 % )である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、 オランダ (6.2 % )、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ(14.1 % )、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。 日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で5割弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、 白金 が続いた。これが2003年になるとアルミニウム( アルミニウム合金 を含む、22.4 % )、 魚介類 、石炭、 木材 、原油となった。輸入は、機械類(26.7 % )、鉄鋼、電気機械、自動車、 プラスチック であったものが、 乗用車 (62.1 % )、建設機械(6.4 % )、 映像機器 、 通信機器 、 バス に変わった。品目が自動車に集中したことになる。

軍需産業 [編集 ]

ロシアにとって軍需産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後 [ いつ? ] も積極的に輸出拡大を続けるとしている [ 誰によって? ] 。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、 宇宙 ・ 航空 ・ 情報通信 産業など多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出ができなくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている。

交通 [編集 ]

鉄道 [編集 ]

道路 [編集 ]

航空 [編集 ]

科学技術 [編集 ]

ロシアの 科学技術 は、ピョートル大帝が ロシア科学アカデミー と サンクトペテルブルク大学 を設立し、博学者 ミハイル・ロモノーソフ が モスクワ大学 を設立した 啓蒙時代 から急速に発展した。 19世紀から20世紀にかけて、ロシアは多くの著名な 科学者 を輩出しており、 物理学 、 天文学 、 数学 、 コンピューティング 、 化学 、 生物学 、 地質学 、 地理学 などの学系分野に重要な貢献を果たしている。 元素周期表の ドミトリ・メンデレーエフ 、近年ではポアンカレ予想の グリゴリー・ペレルマン などが著名である。 なお、ロシアにおいて 発明家 や 技術者 の存在は、 電気工学 、 造船 、 航空宇宙 、 兵器 、 通信 、 IT 、 核技術 、 宇宙技術 などに幅広く影響を及ぼしている。

国民 [編集 ]

ロシアの人口ピラミッド 20世紀 のロシアの 人口動態 は、 第一次大戦・干渉戦争期 そして 第二次世界大戦期 と2度にわたって激減したが、その後は回復傾向にあった。しかし、1992年以降再び 人口 減少が続き、1992年で最大1億4,800万人いた人口が、 2050年 には1億1,000万人程度まで減少すると見られている [ 64 ] [ 65 ] 。原因には、 出生率 の低下や男性の 平均寿命 がきわめて短くなっていることがある。ロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復し、2017年時点では67.5歳である。女性は、1993年に71.2歳まで低下したが、2017年には77.6歳と上昇、男女差は10歳ときわめて大きいままである [ 66 ] 。ちなみに2008年、 OECD 諸国の平均は男性77.2歳、女性82.8歳と男女差は6歳程度である。続いていた人口減少は2012年に止まり、2014年のクリミア併合で人口増加に転じたが2016年の減少に戻り2020年は約51万人の減少 [ 67 ] となった [ 68 ] 。また、出生率も2015年には1.78をピークに上昇したが [ 69 ] [ 70 ] 、2018年時点では1.5人程である [ 71 ] 。

民族 [編集 ]

ロシアには182の 民族 が存在している 多民族国家 である。2010年の統計によると約80パーセントは 東スラブ系民族 となっており、 ロシア人 (民族)が全人口の77.71パーセントを占める。同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35パーセントと全体の3位となっており、 ベラルーシ人 や ポーランド人 を含めたスラブ系全体では82.7パーセントを占める。 チュルク系の タタール人 はロシア人に次いで多い民族集団となっており全体の3.72パーセントを占め、 バシキール人 や チュヴァシ人 、 トゥヴァ人 、 アルタイ人 、 カザフ人 、 ウズベク人 、 アゼルバイジャン人 、 サハ人 などの チュルク系民族 はロシア全体の8.7パーセントを占める。 コーカサス系で最も多いのが チェチェン人 で全体では6位の1パーセントを占め、 イングーシ人 、 オセット人 、 アヴァール人 、アルメニア人、グルジア人などを合わせるとコーカサス系民族はチュルク系に次いで多い3.7パーセントを占めている。 ウラル系 は マリ人 、 モルドヴィン人 、 カレリア人 、 ウドムルト人 、 ネネツ人 などで構成され、全体の1.6パーセントを占めている。 そのほか、 モンゴル系民族 の カルムィク人 、 ブリヤート人 、 ツングース系民族 の エヴェンキ人 、 エスキモー系 の ユピク人 、さらに、 ユダヤ人 や ゲルマン系 の ドイツ人 など多くの非 スラヴ系 民族がいるが、公用語である ロシア語 が 民族共和国 を含め全域でほぼ完全に通用する。

言語 [編集 ]

ロシア語 が 公用語 である。ロシアの各共和国の公用語として以下の28言語がある。

結婚 [編集 ]

法律上結婚可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある [ 注釈 17 ] ( ロシア連邦家族法典 13条。2017年12月29日改定を閲覧)。 結婚後の姓は夫婦どちらかの姓に合わせる(同姓)、結婚前のまま(別姓)、姓を結合する(二重姓)の3通りあり(家族法典32条)、同姓の場合は妻が夫の姓に合わせることが多い。なお ロシア連邦民法典 19条により個人の姓・名前・ 父称 の変更は一定の手続きにより可能である [ 73 ] 。 婚姻登録の申請は特別な事情がある場合を除き、結婚する1か月前までに行う(家族法典11条)。宗教やほかの形式での結婚式が行われることもあるが、家族関係や出生・死亡を扱う市民登記機関であるザックス( ロシア語 : ЗАГС 、ザークスなどとも表記)にある結婚式場で婚姻の署名などを式典形式で行う結婚式がよく行われる。これはソビエト連邦時代からのものである。

宗教 [編集 ]

ロシア人を含めた多くの民族が キリスト教 正教会 の信徒であるが、 カトリック 、 プロテスタント や イスラム教 、 ユダヤ教 、 仏教 などの信徒も少なくない。

教育 [編集 ]

保健 [編集 ]

医療 [編集 ]

ロシア憲法においては、全市民へ無料の ユニバーサルヘルスケア が保障されている [ 74 ] 。しかし無料で医療が受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている [ 75 ] 。ロシアの人口1人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は世界の中で最も多く [ 76 ] 、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが [ 77 ] 、しかし 2000年代 半ばからは回復しており、 平均余命 [ いつ? ] は 2006年 と比べて男性で2.4年、女性で1.4年ほど長くなった [ 78 ] 。 2009年 には、ロシアの 平均余命 は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった [ 79 ] 。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死( アルコール依存 、 喫煙 、交通事故、暴力犯罪)であった [ 78 ] 。このような男女の余命差と 第二次世界大戦 の戦死者によって 人口男女差 は大きく、女性1人あたり男性0.859人となっている。ロシア政府は 2006年 から本格的に 少子化 対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や 死亡率 は徐々に改善されている。 年金 の支給は男性が60歳から、女性が55歳となっているが2018年に引き上げが決定し、 2030年 までに引き上げが行われる [ 66 ] 。

治安 [編集 ]

ロシアの治安は不安定さが幾ヶ所に見受けられる面を持つ。同国内務省が発表した「2017年時におけるロシア国内の 犯罪 情勢」によれば、全犯罪の登録件数約2058,500件(4.7%減)の内93.0%が摘発されており、同年にロシアで認知された「 テロ 行為」は37件(前年比+48%)、テロに準じた犯罪を含む「テロの性格を有する犯罪」は1,871件(前年比-16%)発生している。傍らで犯罪による死亡者数は29,300人 ( 0.5 % 増 ) で、公共施設における犯罪件数は738,000件(6.6%減 ) となっている。都市部では 外国人 を狙った 強盗 や スリ 、 置き引き 、 詐欺 、 クレジットカード や キャッシュカード の スキミング 等の犯罪が多発しており、被害者の中には 日本人 も含まれているとの報告がある。 一方で、一般国民による反体制抗議運動は、集会法の罰則強化を始めとする当局による規制の強化により実施されにくい状況になっているものの、それにも拘わらず首都モスクワ市内では反政権活動家による抗議集会等が開催されており、参加者が数万人規模となることもあるとされている。これらの活動は現時点において平穏に行なわれているが、一部の無許可集会等の参加者が治安当局に逮捕されることもあり、旅行などで同国を訪れたり滞在する際にはトラブルを回避する為にもそれらの集会や デモ には近付かず干渉しないことを心掛ける必要性が求められる [ 80 ] 。

法執行機関 [編集 ]

警察 [編集 ]

人権 [編集 ]

メディア [編集 ]

現状、この節は 日本語 版 記事 があるものが列挙されているだけであり、主要なものを紹介しているとはいえない状態である。 ロシアにおける 言論の自由 についての批判は ロシアにおけるメディアの自由 ( 英語版 )を参照。

テレビメディア [編集 ]

ラジオメディア [編集 ]

報道機関 [編集 ]

出版 [編集 ]

新聞
出版社
公的機関も含め、 YouTube や Instagram の利用も盛んである。

文化 [編集 ]

食文化 [編集 ]

肉・魚料理、シャシリク類
  • ビーフストロガノフ – 牛肉の薄切りをスメタナのソースで和えた料理
  • コトレータ – カツレツ。野菜のコトレータもある
  • シャシリク – 肉の串焼き。カフカースや中央アジアの諸民族の伝統料理
  • フォルシュマーク – 刻みニシンにマッシュポテト・タマネギのみじん切りを加えて焼いた料理
  • キシュカ – 血や穀物を用いたソーセージ
スープ、ボルシチ類
  • シチー – キャベツのスープ
  • ボルシチ – テーブルビート(スヴョークラ)、キャベツなどの野菜と肉を煮込み各種調味料で味付けしたスープ
  • ウハー – 魚スープ
  • オクローシカ – 野菜と肉を刻み、クワスを加えた冷たいスープ
  • セリャンカ – 肉や魚のスープ
  • ラッソーリニク – ピクルスのスープ
野菜料理
  • ガルブツィー – ロールキャベツ
  • サラートオリヴィエ – ポテトサラダ
パン・粉物料理、ピロシキ類
  • ピロシキ – 小型のパイ
  • チェブレキ – 揚げたミートパイ。クリミア・タタール人の伝統料理
  • ペリメニ – 水餃子に似たダンプリング。シベリア起源
  • ブリヌイ(ブリン)- クレープ
  • カーシャ – 粥
飲み物
  • キセリ – 葛湯のようなとろみのある果汁ジュース
アルコール飲料
ワインについては「ロシアワイン」を参照
  • ウォッカ(ヴォトカ)- ライ麦などから製造される蒸留酒
  • クワス – ライ麦と麦芽を発酵させて作る微アルコール性飲料
  • バルチカ – ロシアビール
デザート・スイーツ、パスハ類
  • ババ – 菓子パン
  • シャルロートカ – ロシア風シャルロット
  • パスハ – フレッシュチーズで作る復活大祭の菓子
  • クリーチ
  • プリャーニク – ジンジャーブレッドの一種

文学 [編集 ]

音楽 [編集 ]

映画 [編集 ]

美術 [編集 ]

演劇 [編集 ]

建築 [編集 ]

  • ロシア古典様式
  • ロシア・バロック
  • ロシア・クラシック様式
  • ネオ・ロシア
  • ロシアモダン様式
  • ロシア構成主義
  • ポスト構成主義
  • 様式論争
  • スターリン様式
  • ソビエト様式

世界遺産 [編集 ]

ロシア国内には、 ユネスコ の 世界遺産 リストに登録された 文化遺産 が16件、 自然遺産 が10件 存在 する(2015年の 第39回世界遺産委員会 終了時点)。そこには、モンゴルと共有する自然遺産が1件、リトアニアとだけ共有する文化遺産が1件、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、 モルドバ 、ラトビア、リトアニアと共有する文化遺産1件が含まれる。

祝祭日 [編集 ]

クリスマス が 1月7日 なのは、キリスト教の宗教行事は ロシア正教 が公認している ユリウス暦 に基づいて行われていることによる( 正教会 ではほかに エルサレム総主教庁 、 グルジア正教会 、 セルビア正教会 、 アトス山 などがユリウス暦を採用している)。現在の暦である グレゴリオ暦 は、歴史的にはカトリック側が作った暦であるためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)1月7日がユリウス暦の 12月25日 に相当する。 2100年 2月28日 まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は 1917年 に ロシア革命 でソヴィエト政権が成立した 11月7日 が 革命記念日 として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた 11月4日 を「国民団結の日」として復活させた。

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月7日 クリスマス Рождество Христово 正教会のクリスマス。ユリウス暦の12月25日に相当(2100年まで)
1月14日 旧正月 Старый Новый год ユリウス暦の1月1日に相当(2100年まで)
2月23日 祖国英雄の日 День защитника Отечества 元々はソ連地上軍とソ連海軍の日
3月8日 国際女性デー Международный женский день
5月1日 春と労働の日 Праздник весны и труда 旧メーデー
5月9日 対ドイツ戦勝記念日 День Победы 1945年にナチス・ドイツがソビエト連邦などの連合国に対して無条件降伏した日
6月12日 ロシアの日 День России 1990年にロシア共和国がソビエト連邦に対する主権宣言を採択した日
11月4日 国民団結の日 День народного единства 1612年にロシア・ポーランド戦争において、ロシア国民軍がポーランド軍からモスクワを解放した日
12月12日 憲法記念日 День Конституции Российской Федерации 1993年に現行のロシア連邦憲法が制定された日
12月31日-1月1日 年末の休日 Новый год

スポーツ [編集 ]

ソ連時代から オリンピック で毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。 ロシアは 1980年 の モスクワオリンピック をはじめ、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。 2014年 には 黒海 沿岸の ソチ で 冬季オリンピック ( 2014年ソチオリンピック )を、 2018年 には サッカー の ワールドカップ ( 2018 FIFAワールドカップ )を開催している。 国内リーグには ロシアサッカー・プレミアリーグ 、 アイスホッケー の コンチネンタル・ホッケー・リーグ などがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、 陸上競技 、 フェンシング 、 体操競技 、 新体操 、 アーティスティックスイミング 、 フィギュアスケート などの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア・旧ソ連発祥のスポーツとしては、日本の 柔道 と西洋の レスリング などをベースに編み出された サンボ が挙げられる。 他方で、 ドーピング 問題で国家的な関与があったとして国際的な非難がされている。 2018年平昌オリンピック では国家としての参加が認められず、ロシアの選手は OAR (オリンピック・アスリート・フロム・ロシア)という呼称で個人での参加となった。このオリンピックでは、公式記録上はOARとしての記録である。また、優勝しても国旗の掲揚、国歌の演奏はされず、代わりにオリンピック旗が掲揚され、オリンピック賛歌が演奏された。この平昌大会から正式競技となった カーリング 混合ダブルスで、当初は銅メダルを獲得したロシアのペアのドーピングが発覚しメダルを返還するなど、アンチドーピング対策が大きな課題となっている。 2019年 に 世界アンチ・ドーピング機関 は、ロシアのドーピングのデータ改ざんに対して4年間国としての参加を認めない処分を決定。 2021年 に開かれた 2020年東京オリンピック ・ パラリンピック ではROC、RPCとして参加した [ 81 ] 。

著名な出身者 [編集 ]

脚注 [編集 ]

注釈 [編集 ]

出典 [編集 ]

参考文献 [編集 ]

関連項目 [編集 ]

外部リンク [編集 ]